北東アジアの憂鬱

色々と悩みの多い北東アジア情勢ですが、各国の人々がどのように物事を捉えているのか、それぞれの国のニュース等を紹介しながら(可能な限り客観的に)考察していきます。また、旅行記も並行してアップしていこうと考えています。

文禄・慶長の役(韓国名:임진왜란(壬辰倭乱))を辿る旅 in 蔚山 (うるさん)

皆さん、こんにちは!

ブロガーのKojiです。

 

先日、韓国の蔚山(うるさん)に行ってまいりました。

 

-----蔚山とは-----

釜山から北に70KMほど行ったところにある工業都市で、現代グループ企業城下町でもある。

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捕鯨も盛んで、近年でも毎年千を超える数の鯨が水揚げされている。

 

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今回のテーマである、文禄・慶長の役(韓国名:임진왜란(壬辰倭乱)) とは、Wikipedia先生によると以下の様な戦いだった様です。

 

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文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。 

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日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長加藤清正らの侵攻で混乱した首都を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であった。

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文禄・慶長の役 - Wikipedia

 

簡単に纏めると、

日本が朝鮮半島に出兵をした結果、1592年から1598年迄の間、休戦期間を合わせて凡そ7年間に渡り朝鮮半島で日本軍と明・朝鮮軍とが対立状態にあった戦争という事ですね。

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・南蛮船を通じて日本に伝わった唐辛子がこの頃に朝鮮半島に伝わった

・各大名が日本に連れて帰った朝鮮人陶工によって、日本の焼物技術が発展した(日本のやきもの/歴史

・釜山には日本軍が植樹した木々が繁っている (Isabella Bird - Wikipedia -Korea and Her Neighbours)

・韓国/北朝鮮ででもっとも有名な(恨まれている)日本人の一人は豊臣秀吉である

 

等々の小話が出てくる程、現代にも深く繋がりのある戦いだった様ですが、韓国国内各地には日本軍の築いた城跡が残っています

 

中には、これがそうなの??

というものもあれば、

確かに日本式の城だ!!!

というものもある様です。

 

今回は以下の2つの城を訪れてきました。

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  *蔚山倭城(現鶴城公園)の案内板

 

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蔚山倭城は現在公園となっており、説明や案内板がなければそれとは分からないような状況でした。
 
ここでは、案内板を見ていたところ、近所に住むボランティアのおばさんが
「どこから来たの?」
と話掛けてきて、日本から来たことを伝えると、案内をしてくれました。
押し付けがましい感じや、批判的な感じではなく、比較的ニュートラルに淡々とそこで起きたであろう話をしてくれたので、非常に気持ちよく公園内を廻らせてもらう事ができました。
 
説明では、
・当時は公園のすぐ隣は海(川?)だった事
・日本軍が包囲されている時には、軍馬を食べ、自らの尿を飲んで飢えや渇きを凌いでいた
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 *戦いに関する説明の石碑
 
等が印象的でした。
 
熊本で桜肉をよく食べる理由として、
朝鮮出兵の際の食糧不足で軍馬を食べたのが始まりだという説をよく聞きますが、ここがその舞台であった可能性は非常に高いようです。
また、隣が海だったという事で、蔚山城の戦いの際には、加藤清正が西生浦から船に乗ってここまで乗り付けて来たんだろうなと、当時の情景を頭に浮かんで来ました。
 
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西生浦倭城は山の上にあり、あまり人の出入りは無いようでしたが、日本式の城である事がパッと見てわかる状態で保存されていました。
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 *この写真の奥に扉の閉まったお堂が有りますが、近づくととても寒気がしました。本丸に向かう道にあったのですが、これが何かお分かりの方はいらっしゃいますでしょうか。
 
最後に、
 
文禄・慶長の役(韓国名:임진왜란(壬辰倭乱))の結果を日中韓Wikipedia先生に聞いてみた結果を発表します。
 
日本語では・・・
小西行長沈惟敬らの協議によって日本と明の間では休戦成立。日本軍は南に後退したものの、朝鮮半島に築いた城塞に駐留した。
 
豊臣秀吉死去で日本軍が帰国して終結。講和せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張した。
 
中国語では・・・
日本陸軍佔領朝鮮南部四道,明、朝聯軍收復平壤、漢城,明、日實質停戰、展開議和
(意訳:日本軍が朝鮮南部の四道を占領し、明・朝鮮軍平壌とソウルを取り戻した状態で停戦)
 
明、朝鮮聯軍勝利,日軍撤退
(意訳:明・朝鮮連合軍が勝利し、日本軍が撤退)
 
韓国語では・・・
文禄・慶長の役(임진왜란)>
조선과 명나라의 승리
 (意訳:朝鮮と明が勝利)
割と想像できるの各国の歴史観では無いでしょうか?
 
この戦いに関して、有名な文章としては、 
 明史・朝鮮伝(漢文)の文中に
"自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。”
(意訳:7年もの間、倭(日本)と戦った。数十万の将兵と数百万の食料を失うも、中朝に勝機はなかったが、関白(秀吉)が亡くなった事で戦いが終わった
というものがありますね。
 
私自身の考えとしては、日本語版Wikipedia先生に近いですね。
みなさまはどうお考えでしょうか??
 
戦いの結果は一先ず置いておいても、
蔚山釜山から日帰りで十分行ける街です!
釜山に行って、1日でも空いた時間があればぜひ倭城跡を訪れ、当時の情景に思いを馳せて来てください!!!
 
 
Koji